太陽と月はそれぞれ、私たちの生活に一定のリズムをもたらし、暦やカレンダーが作られるもととなりました。
先の予定を立てるため、今や欠かせないツールではありますが、両者の違い、暦の日本伝来とその後の変遷、現在公式の暦要項とは何かなどについては、あまり知らずにおりました。
2012年公開の映画『天地明察』を観た時の熱い思いも忘れ去り、今回改めて調べてみました。江戸時代のみならず、明治の改暦以後の怒涛の内容を知ることができたのはよかったと感じました。
どうぞご覧になってみて下さい。
そもそも暦とは?カレンダーとの違い
両者の由来は
・「カレンダー」は、古代ローマの暦で朔日(1日)を意味する、ラテン語の「カレンダエ」が語源といわれています。1日の日付で新しい月に入った宣言をしたことが由来とされています。
・漢字によると、「暦(曆)」は、穀物を意味する「禾(のぎ)」を用いた「厤(れき/りゃく)」から歴と暦が作られ、日(太陽)を数えて穀物主にお米が実る時期を知ることを表し、読み方の「こよみ」は「日読み(かよみ)」が由来とされています。
暦とは
そもそも「暦」とは何でしょうか?
日本では暦とカレンダーは同じ意味で使われることが多い一方で、暦はより広義の意味を持ちカレンダーもその中の1つとして、区別して用いることがあります。
「暦こよみ」とは『広辞苑(第七版)』によると、
〈日読(かよみ)の意〉一年中の月・日・曜日、祝祭日、季節、日出・日没、月の満ち欠け、日食・月食、また主要な故事・行事などを日を追って記載したもの。カレンダー。
また「暦レキ」とは『大修館書店 新漢字林 第二版』によると
レキは屋内に稲を整然とつらねる形にかたどる。日の経過を整然と順序だてる、こよみの意味を表す。
① こうおみ。天体の運行を測り、季節などを推算する方法。また、その結果を記録したもの。カレンダー。
② かず(数)。かぞえる。③ めぐりあわせ。さだめ。運命。④ よわい。年齢。⑤ 年代。歳月。⑥ 日記。
さらに、ウィキペディアによると
暦(こよみ、れき)とは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの。また、その構成の方法論(暦法)や、それを記載した暦書・暦表(日本のいわゆる「カレンダー」)を指す。さらに、そこで配当された各日ごとに、月齢、天体の出没(日の出・日の入り・月の出・月の入り)の時刻、潮汐(干満)の時刻などの予測値を記したり、曜日、行事、吉凶(暦注)を記したものをも含める。
現在の暦(こよみ)は、太陽の動きに従った季節変化をもとに、一年間の月・日・曜日について日ごとに記したもので、年月日は、十干と十二支の組み合わせによっても表すことができます。
そして現在のカレンダーは、1年を約360日12か月として各月の並びや1か月の日数、1週間の曜日の並びを定めた古代エジプトの暦および古代ローマの暦をもとにして作られています。
最もシンプルな形式であるカレンダーには、月・日・曜日および休日などが記されており、その他古来からの暦より受け継がれてきた内容として暦注※が掲載されているものもあります。
暦に特徴的な古来から記された暦注にあたる一部は、現在の暦要項(れきようこう)の内容になります(暦要項につきましては、後述があります)。
そして暦とは、歴史的には天体の位置から季節や時間の流れを計測し、農業を始めとする産業や経済などを予測し、計画的に豊かな未来の結果が得られるよう、時の為政者や軍師・占星術師などが時代とニーズに合わせて改良を重ね、積極的に活用してきた体系といえます。
※大化の改新後の奈良時代、律令制の「陰陽寮(おんみょうりょう)」により作成された「具注暦(ぐちゅうれき)」に、季節や年中行事とともに毎日の吉凶などの詳細が漢字で記入されており、これらは「暦注(れきちゅう)」と呼ばれていました。
※暦注に関しては、こちらをご覧ください。
※天体観測による1年が約360日12か月、1週間、1日、曜日の制定などにつきましては、よろしければ、以下の記事をご覧になってみてください。
「1日」が24時間となった設定や認識の変遷とは?時間表記方法も
うるう年の意味は? 必要性や例年は28日までの2月で調整する理由
暦の日本伝来と改暦
飛鳥時代の伝来のち改暦多数
日出・日没、月の満ち欠け、気温や自然の変化などによって、生活や農作業を営んでいた暦のない時代の後、「日本書紀」には以下の内容が記されています。
・553年欽明天皇の依頼を受けた百済の暦博士「王保孫(おうほそん)」より「暦本」を入手
・602年百済からの来日僧「観勒(かんろく)」に学び、日本最初の暦「元嘉暦(げんかれき)」作成、604年より施行。 |
その後、いく度もの暦の改変がありました。
儀鳳暦 ぎほうれき → 大衍暦たいえんれき → 五紀暦ごきれきと併用 → 宣明暦せんみょうれき → 貞享暦じょうきょうれき → 宝暦暦ほうりゃくれき → 寛政暦かんせいれき → 天保暦てんぽれき |
江戸時代には、幕府天文方により初めて日本人による暦法による「貞享暦」の作成、「宝暦暦」「寛政暦」「天保暦」と4度の改暦が行われました。
18世紀中国の天文暦学書『暦象考成後編』には、太陽と月の運動論、日月食理論、 予報計算のための表が掲載され、太陽と月の運動においてケプラーの楕円軌道論が紹介されました。
これにより、幕府天文方の麻田剛立(あさだごうりゅう)および高橋至時(たかはしよしとき)、間重富(はざましげとみ)によって『暦法新書』として取り入れられ、西洋の天文学を取り入れながら、より精密な暦を編纂していったということです。
これまでの明治5年12月3日が、現在の暦の明治6年1月1日と定められた改暦でした。
貞享暦と『天地明察』
江戸時代には、天文学の知識の高まりとともに、幕府のもとで日本製の暦を作成しようという機運が高まりました。
それまでは、平安時代862年以来800年以上、中国の宣明暦(せんみょうれき)に基づいて毎年暦を作成していたため、実際の日蝕や月蝕など天体の動きと合わなくなったことが問題視されたことによるものです。
そこで、渋川春海(しぶかわはるみ/別名:安井算哲さんてつ)は、みずからの観測に基づき、中国と日本の経度差を補正し、22年の歳月をかけて初めて日本人による暦法に基づいた「貞享暦」を作成し、1684年に改暦となりました。
この改暦に至る内容は、小説家冲方丁(うぶかたとう)著書『天地明察(てんちめいさつ)』に描かれ、映画化もされたため、ご存じの方も多いのではないでしょうか。 現在も、東京渋谷区宮益坂の金王八幡宮では、奉納された「算額の絵馬」を見ることが出来ます。
頒暦(はんれき)について
暦は当初、朝廷内でのみ用いられるものでしたが、鎌倉時代以後、版刻技術により庶民にも普及するようになり、暦の需要に応じ各地で暦を刷って版行する暦師(れきし)が誕生しました。
暦は、江戸時代まで公式に頒布(頒暦はんれき)するため、幕府天文方が暦法に従って、科学的内容のみ計算したものを京都に送り、陰陽寮の暦博士(こよみはかせ)幸徳井(こうとくい)家によって迷信的な暦註を追記した後、全国の暦師によって出版されました。
それらは、「地方暦」として伊勢暦・三島暦・京暦・江戸暦・会津暦など、十数種類も存在していたといわれています。
1823年、 幕府により許可された暦師や暦問屋以外、民間での暦製作が禁じられる「暦専売」となりました。
1873年(明治6年)、改暦と官暦(本暦)発行により、全国の暦師が組織化され「頒暦商社」が誕生し、民間製作は禁じられたままでした。しかし、官暦には人心を惑わす迷信として、吉凶に関する記載は削除されたため、それらを掲載した民間非合法の「お化け暦」が出回ることとなりました。
1883年、本暦(官暦)の発行は神宮司庁の管轄となり、伊勢神宮の「神宮暦(じんぐうれき)」と呼ばれました(この暦にも、旧暦・六曜などの吉凶・九星占いに関する内容は掲載されていません)。
1946年(昭和21年)、暦専売は廃止され自由化となりました。
現在は写真つきの、日付・曜日および休日のみのシンプルなカレンダーが主流となっています。
なお、古来からの暦の記された暦本(れきほん)は、「神宮館」および各神社・寺院や私的な機関などの民間一部で発行されています。
暦の形式
かつての暦の形式は、小冊子で「綴暦(とじごよみ)」または「暦本(れきほん)」が主流であり、現在も変わりません。
よく使用する部分のみに簡略化した暦は「略暦(りゃくれき)」と呼ばれ、なかでも縦一枚摺りで柱に貼るタイプは「柱暦(はしらごよみ)」、折りたたんで携帯するタイプは「懐中暦(かいちゅうごよみ)」などがあります。
年末には宣伝のため、商店の広告にカレンダーを加えた引札暦をお客に配布していたそうです。
今日では一般的な暦表(れきひょう)やカレンダーで見られる、月や週で日付を並べた形式は、明治後半から大正時代には存在していたといわれています。
暦売(こよみうり)
暦売(こよみうり)とは、「広辞苑第7版」によると
歳末に、来年の暦を売ること。また、その人。冬の季語
かつて庶民は、年末に各地で暦師によって製作された暦を、売り歩く暦売から購入していたそうです。
昭和の時代には、街角で年末になると暦売の立ち売りを見かけたそうで、現在も、大きな神社の境内などには暦売が出ていることがあります。
現在の日本の公式暦「暦要項」
暦要項とは
「暦要項(れきようこう)」は、国立天文台で推算した翌年の暦(国民の祝日、日曜表、二十四節気および雑節、朔弦望、東京の日出入、日食・月食の日時など)が掲載された日本の公式暦で、前年2月に官報で毎年発表されています。
所管は、同天文台の「暦計算室(れきけいさんしつ)」で、国際的な基準暦にもとづき、太陽・月・惑星の観測位置などの情報を推算して、「暦象年表(れきしょうねんぴょう)」を発行しています。
暦象年表は、先の暦情報を掲載した日ごとの冊子で、誰でもWeb版/PDF版を見ることが出来ます。
天文台と暦要項の歴史変遷
1888年(明治21年)、 現在の東京都港区麻布台に「東京天文台」が設立、天象観測および編暦事業が開始されました。当時は、東京天文台で編纂された暦を、伊勢神宮の神宮司庁内の部署で印刷し頒暦されていました。
1924年(大正13年)、同天文台は観測に適した現在の東京都三鷹市に移転しました。
1946年(昭和21年)、伊勢神宮による暦の刊行・頒布中止により、東京天文台でこれまでの本暦(官暦)にかわる「暦象年表」が刊行されました。
内容は、二十四節気・雑節・朔弦望及び食など暦象事項を抜粋したもので、後に「暦要項」となるものです。
1954年(昭和29年)、東京天文台より「翌年の暦要項」が初めて公示され、1964年版以降は2月最初の官報掲載となりました。
1988年(昭和63年)、 東京天文台は大学共同利用機関として統合され、「 国立天文台」に。 2004年(平成16年)、法人化し、大学共同利用機関法人自然科学研究機構国立天文台となりました。
今年2024年は、国立天文台(旧 東京天文台)三鷹移転100周年として、記念式典も行われました。
暦要項や暦象年表の内容は
・暦要項の内容は、先述の通り暦象年表から抜粋した6ページ程度です。
特に春分・秋分は、観測と推算に基づき前年2月に発表される重要な内容といえます。
内容は、広義の暦注(暦の注釈)といえます。
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・暦象年表の内容は、各惑星の観測位置などの情報を推算した日ごとの記述があり、128ページに及びます。
目次による具体的な内容は以下の通りです。参照元:暦象年表 令和 7年 2025
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※章 動(しょうどう):太陽や月、惑星の引力の影響を受け、地球が傾いている自転軸を立てようと、周期的な小さなゆれで長い間にその向きを変えてしまう動きのことで、歳差運動とも呼ばれています。
よろしければこちらをご覧ください。なぜ「1時間は60分」で「1分は60秒」?現在の1秒と時間に至る変遷
まとめ
・暦は、太陽の運行に基づき、一年中の月・日・曜日、祝日・休日、季節、日出・日没、月の満ち欠け、日食・月食、また主要な故事・行事などを日を追って記載した1つの体系であり、カレンダーもそのうちの1つで最もシンプルな形式の暦表です。
・暦に特徴的な古来から記された暦注にあたる一部は、現在公式の暦要項(れきようこう)にも掲載されています。
・暦の日本伝来は飛鳥時代、604年日本で最初の「元嘉暦(げんかれき)」が施行されました。
・1684年江戸時代に、幕府天文方渋川春海によって初めて日本人による暦法に基づいた「貞享暦(じょうきょうれき)」の改暦を含め、西洋の天文学を取り入れた改暦が行われました。
・暦は、元は朝廷内のみで用いられていましたが、鎌倉時代以降江戸時代までは、公式に頒布(頒暦はんれき)するため、幕府天文方が暦法より計算し内容の統一されたものを京都に送り、陰陽寮の暦博士(こよみはかせ)によって迷信的な暦註を追記した後、全国の暦師によって出版されました。
・明治時代1873年より、現在の暦が用いられるようになり、1888年(明治21年)設立の「東京天文台」にて天象観測および編暦事業が開始され、計算後は伊勢神宮内で出版・頒暦されることとなりました。
・1946年(昭和21年)より伊勢神宮による頒暦中止となり、東京天文台でこれまでの本暦(官暦)にかわる「暦象年表」が刊行され、1954年(昭和29年)には、「翌年の暦要項」が初めて公示、1964年版以降は2月最初の官報掲載となりました。
・暦要項には、暦象年表からの抜粋による「国民の祝日、日曜表、二十四節気および雑節、朔弦望、東京の日出入、日食・月食の日時」が掲載されており、公式の暦として「国立天文台」暦計算室(れきけいさんしつ)より発行されています。
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1年という時について、カレンダーを見ながら、自然や季節の移ろい・伝統行事とともに自身を振り返る時、かつての暦と現在の暦の成り立ちや変遷にも思いをはせると、日常でより太陽や月、そして地球も感じながら暮らせるのではないでしょうか。
現代においても、古代エジプトやローマ時代の暦をもとにしたカレンダーを使用していることと、暦要綱には、かつての暦の暦注の一部である二十四節気や雑節が掲載されていることは、なんだか不思議な感じもします。
なんにせよ、中島みゆきさんの「暦売りの歌」の歌詞のように、
「1生1度の1日を 総て良き日であるように」と、暦で未来の計画を立てて過ごしてみるのが、楽しみになるかもしれません。