「十二時辰」と「時の鐘」昔の時間の表し方2通りとは?いつから?一覧も

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暦・時

江戸時代までの昔の時間表現として、「十二時辰(じゅうにじしん)」や「時の鐘」といわれても、何となく聞きなれないかもしれませんが、お昼12時の「正午(しょうご)」や落語の「時そば」、あるいは3時のおやつに関連したお話ということなら、少し身近な感覚を持てるのではないでしょうか。

時代劇や大河ドラマ、歴史小説、古典文学、もしくは古典芸能などに触れると、昔の時間の表し方を知りたいと思うことがあるかもしれません。

また、お子さんが授業で習った後で尋ねられた時、一緒に確認したりクイズにするのも楽しいものです。

そこで、この2通りの時間の表し方を調べ、まとめてみました。

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昔の時間の表し方

日本で時間を表したのはいつから?

現在のような時間の概念の存在もなく、誰もが時計を所持して見られるようになる以前、時を知る手段には、どのようなものがあったのでしょうか。

大昔は、日の出・日の入りに従い太陽とともに活動していたようです。

中国からの「暦本(れきほん)」伝来、500~600年代の飛鳥時代には、「十干十二支(じっかんじゅうにし)」による年月日とともに、方角や時間の概念や表記も伝わってきたそうです。

『日本書紀』には、中大兄皇子、後の天智天皇によって「漏刻(ろうこく)」と呼ばれる水時計が作られ、その水面計測をもとに、宮中では鐘や太鼓を鳴らして時を知らせたとの記述があります。

その日が西暦671年6月10日にあたることから、「時の記念日」として定められ、また「時報の起源」ともいわれています。

※人類によって最初に作られた時計は、太陽の動きとともに変化する影を用いた日時計でした。ところが、曇りや降雨などにより日光が遮られる場合には、正確な計測は適わなくなるため、その後古代中国では、水時計作成し用いていたようです。

平安時代927年に編纂された律令制度の行政法「延喜式(えんぎしき)」には、暦などを司る陰陽寮(おんみょうりょう)の規定に時刻に関する記述があり、それによると1日を12等分し十二支の名称を当てはめ十二辰刻とし、時報として数を決めて太鼓を鳴らし、各辰刻を4つに分けた時間は鐘を鳴らしていたそうです。

やがて宮中以外、各寺社に鐘が設置されると、市中にも鐘の音が聞こえるようになりましたが、庶民はその後も長い期間、約2時間より短い単位を知るには個々の工夫が必要で、主に昼は太陽・夜は月や星の位置による生活が続きました。

その後江戸時代には、江戸中の寺社9か所で「時の鐘」を鳴らし、その鐘の音が聞こえる町からお金を徴収するとともに、日本橋に「鐘撞(かねつき)」が建立され、時間というものが定着していくこととなりました。

定時法と不定時法

時報が導入された飛鳥時代以降、平安時代ごろの宮中では、定時法が用いられていましたが、太太鼓やの聞こえない庶民の生活は、太陽の位置に従ったものでした。

その後、鎌倉~室町時代などは不定時法を採用、江戸時代は定時法と不定時法が併用され、明治時代1873年より定時法が採用され現在に至ります。

定時法

定時法は、1日の昼夜を平等に24分割して時間を表す方法です。

現在、日本では1873年より、この定時法で「平均太陽時による一昼夜を平等に24分割し、太陽が子午線を通過する時刻の12時間前を零時として、1日をスタートする生活」を営んでいます。

この概念の起源は、古代バビロニアの1日を12等分する考え方や、紀元前2世紀ごろのギリシャ天文学者ヒッパルコスにさかのぼります。

また、1日を24時間とする概念の浸透は、機械式時計の発明・普及となった16~18世紀以降といわれています。

不定時法

不定時法は、1日を昼と夜に分け、別々に12分割して時間を表す方法です。

昼は日時計、夜は目印となる星の位置をもとに時間を計測する方法で、昼夜の長さは冬至、夏至、春分・秋分と季節によって異なり、不便とはいえかつての庶民の実生活のよりどころとなっていました。

※詳細は、よろしければこちらをご覧ください。「1日」が24時間となった設定や認識の変遷とは?時間表記方法も 

十二時辰と時の鐘

十二時辰

かつての日本では1日を12刻に分け、十二支で時刻を表した「十二時辰(じゅうにじしん)」を用いていました。

先述の「延喜式(えんぎしき)」に記述のある「十二辰刻(じゅうにしんこく)」とも呼ばれます。

この方法は「定時法」と「不定時法」両方で用いられることとなりましたが、わかりやすく現在の定時法にあてはめて説明していきます。以下の図をご覧ください。

子の刻からスタートしますが、時刻は2時間ごとで23時~翌1時と日付をまたいでいます。

また、各刻の始まりは「初刻(しょこく)」、中央は「正刻(しょうこく/せいこく)」とよばれ、子の初刻は23時で正刻は0時となり、暦の上の1日は、正子~翌日の正子となります。

お昼の12時は、牛の正刻である「正午(しょうご)」で「午前・午後」とともに、現在も使われています。

また、これより短い単位として、1時間を「半時(はんとき)」としました。さらに「四半刻(しはんとき)」として、1刻2時間を4等分し30分毎に「一つ」ずつ数える方法もあり、その知られたところとして「丑三つ時」があります。

丑の刻1時~3時のうち

「丑一つ」は1時~1時30分、「丑二つ」は1時30分~2時、「丑三つ」は2時~2時30分、「丑四つ」は2時30分~3時となります。

時の鐘(正刻の鐘)

こちらも先述の通り、宮中や寺社では、各時刻に決められた数の太鼓や鐘を鳴らして、時報を知らせていました。

3時のおやつ」の由来も、かつて1日2食だった時代の宮中では、太鼓が8つ鳴る八つ刻(やつどき)の午後1~3時に軽い間食をいただいていたことから「御八つ」と呼ばれるようになったといわれています。

そして江戸時代には、日本橋の鐘撞(かねつき)堂をはじめとした「時の鐘」が、十二時辰の「正刻」に鳴らされるようになりました。

落語の「時そば」は、時間を表す鐘の音の数え方と、お金の数の数え方が同じであることを利用したものとして有名ですね。

鐘の数の決め方と昼夜の区別

その際、十二時辰(十二辰刻)ごとに打つ鐘の数は、以下の通りです。

の刻の正刻0時が九つから始まり、が八つ、が七つ、が六つ、が五つ、が四つ、

ふたたびが九つ、が八つ、が七つ、が六つ、が五つ、が四つでした。

この決め方は、陰陽思想による縁起の良い奇数最大の数「9」から始まり、順番に数を増やしていく考え方ですが、鐘を鳴らすことを考慮し、1桁の数を表したものといわれています。

9×1=9 →九つ、 9×2=18→八つ、 9×3=27→七つ

9×4=36→六つ、 9×5=45→五つ、9×6=54→四つ

また、昼と夜をそれぞれに六等分した不定時法により、日の出となる卯の刻から夜は日没となる酉の刻から始まるため、数のみによる重複をさけて昼夜を区別するため、「明・朝・昼・夕・暮・宵・夜・暁」と頭につけて、「子の刻」は「真夜九つ」、その後「夜八つ」「暁七つ」「明け六つ」「朝五つ」「昼四つ」・・・と呼ばれていました。

その他の表現

他にも時刻を表す古語名による表現として、以下のものがあり、十二時辰の時刻に対応するとされています。夜半や日中、訓読みにした日出(ひので)や黄昏(たそがれ)などは、現代も用いられています。

夜半(やはん)・鶏鳴(けいめい)・平旦(へいたん)・日出(にっしゅつ)

食時(しょくじ)・隅中(ぐうちゅう)・日中(にっちゅう)・日昳(にってつ)

晡時(ほじ)・日入(にっちゅう)・黄昏(こうこん)・人定(にんじょう)

江戸時代の「十二時辰・時の鐘・現在の時刻他」一覧表

具体的な江戸の時刻について、十二時辰・時の鐘・古語名・現在の時刻を定時法で表した、基本的な考え方となります。また、春分・秋分はほぼ昼夜の長さが同じとなります。

十二時辰 時の鐘 現在の時刻(正刻) 正刻の古語名
子(ね)の刻 真夜九つ   23時~翌1時(0時) 夜半(やはん)
丑(うし) 夜八つ    1~3時(2時) 鶏鳴(けいめい)
寅(とら) 暁七つ    3~5時(4時) 平旦(へいたん)
卯(う) 明け六つ  昼スタート 5~7時(6時) 日出(にっしゅつ)
辰(たつ) 朝五つ    7~9時(8時) 食時(しょくじ)
巳(み) 昼四つ    9~11時(10時) 隅中(ぐうちゅう)
午(うま) 真昼九つ  太陽の南中時刻 11~13時(12時) 日中(にっちゅう)
未(ひつじ) 昼八つ    13~15時(14時) 日昳(にってつ)
申(さつ) 夕七つ    15~17時(16時) 晡時(ほじ)
酉(とり) 暮れ六つ  夜スタート 17~19時(18時) 日入(にっちゅう)
戌(いぬ) 宵五つ    19~21時(20時) 黄昏(こうこん)
亥(い) 夜四つ    21~23時(22時) 人定(にんじょう)

※北半球では、夏至の日の日の出~日没までが一年で最も長く、次第に昼の時間が短くなっていき、冬至の日には最も短くなります。実際には、それに合わせて十二時辰の昼夜の長さと1刻の長さも伸縮します。

まとめ

日本による時間計測と時報の始まりは、西暦671年天智天皇の作成した水時計による計測と、太鼓と鐘を鳴らして知らせるものでした。

1日を十二分割し、十二支の名称を割当てた十二時辰(十二辰刻)は、1刻を約2時間、その中央を正刻として、子の正刻0時~翌0時を暦の上の1日としました。さらに1刻を30分ごとに4等分した「四半時」という数え方では、「丑一つ・二つ・三つ・四つ」とされました。

また、各刻を知らせるために鐘を鳴らす数は、陰陽思想により昼夜でそれぞれ9から始まり8・7~4つと数えられ、昼夜の区別がつくように日出は明け六つ、日入は暮れ六つと呼ばれました。

時法は時代により定時法・不定時法が用いられ、江戸時代は不定時法のため、季節によって昼夜の時間が異なることに伴い、1刻の長さも変化するものでした。

具体的な時間については、「十二時辰・時の鐘・古語名・現在の時刻を定時法で表した一覧」をご覧ください。

現代でも見聞きし用いられている呼び名や、古の時刻に関する基礎知識によって、関心が広がるのではないでしょうか。

日本橋本石町三丁目の「時の鐘」は、現在東京都に移管され、日本橋小伝馬町にある「十思(じっし)公園」の鐘楼堂内に設置され、大晦日にのみ鐘が撞かれているということです。

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